「ヒト・モノ・カネ」がまったく補給されない中で、コンセプトや計画だけ広がっていってしまい、いつかそのギャップに耐えきれなくなって破綻する。こういうことはいつか来た道でありながら、何度も繰り返されていることではないかと思います。

こないだぼくの友人のAくんが、

「結局会社で言われていることを要約すれば、応援はしているけれど、ヒト・モノ・カネは出せないし、失敗したときにも責任はとれませんてことだよね」

と言ってましたが、こういう状況は、ある意味で日常にもなりつつあり、そんな話がされれば、口々に「ああ、それうちもだわ」的ななんともいえないあきらめにも似た雰囲気もあるのではと思います。

普通に考えて「応援」というのは、「本当に心に響いて、この人のためならがんばれる」と思えるか、そうでなければ「ヒト・モノ・カネ」のどれかを出すかしかないと思ったりもしますけど、そうではない応援も大人にはあるというせつない事実でもあります。

補給がないのに、戦線を広げてもすぐには破綻しないのは、結局は「現場が無理をしている」だけのことです。そしていつしか「無理」がデフォルトになり、「これでもできるなら、もっといけるのでは」というなぞの期待が働き、戦線の拡大が止められず、いつか「本当に無理」になったときにすべての計画が破綻するというプロセスを踏むのかもしれません。

計画が途中で破綻しても地獄、変に計画が成功してしまったらそれはそれで「これでもできちゃうじゃん」ということになり、その先が地獄という、なんとも希望のない状態でもあります。

結局のところ、身の丈にあった成長の進度で進むしかないとは思うのですが、大きく見せないと、日常もままならないという状況から、「一応総ハッタリ時代」状態であり、無理がたたったところから破綻していくということになるのかなと思います。

どうやったらこれを抜け出せるのかと考えるとなかなか難しいです。

ただ、我々は「ハッタリとしてのビジョン」に頼りすぎなのかなとも思っています。ビジョンは大切ですが、語ったところで現状が変わるわけではありません。

その友人いわく、

「ビジョンとか計画なんて語らないのでいいので、とりあえず現場を見にこい」

とのことでしたが、なんとなく言わんとすることはわかるなあと思ったりしたのでした。

「補給なき中での戦線拡大の時代」を生きるためには、ある意味でいえば「物分りよく生きない」ことも必要だろうと思います。

そして「ビジョンを語る」ことは重要でありながらも、実はそれ以外の多くのことが求められている時代なのかなとも思うのでした。