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今年は博士論文を書く年!と自分のなかで決心し、毎日ひたすら文章を書いています。博論以外もいろいろなことをやっていますが、自分のなかでは今年は博論を最優先事項にして、それ以外はなるべくセーブする方向でやってきました。

wordでいえばページ数は200枚を超え、文字数も10万字を超える量になります。これくらいの量になると、仮に「なんでもいいからその量を書け」と言われても大変なレベルです。

博士論文を書くというのは、これまでの研究成果をまとめ、ひとつのストーリーに再構成するということです。これまでやってきた研究よりをもう一段階、抽象的な視点にあげて、自分のやっていることを意味づけることでもあるかと思います。

思考のレイヤーを一段階あげて統合することは、認知的な負荷がとてもかかります。その一方で、この作業はとても楽しくもあります。自分がやったことが大きな研究の流れにおいてどこに位置づくのかを考えることは、知的好奇心が刺激されます。

博論の審査をしてくださる先生方のコメントに答えるために、あれやこれや調べ直したり書き直していると、時々「ああ、これはここと接続して論じることができるかもしれない!」と思う瞬間があるのですが、そういうときにも、やはりひとりでテンションがあがります。

ひとりでテンションがあがるどころか、研究室で隣で作業をしているメンバーに「これって、こうもいえるってことですよね!」と思わず話しかけてしまいます。おそらくいきなり言われてもなんのことかわからないし、作業中なので邪魔しているとは思うのですが、それでも言わずにいられなくなってしまうのです(笑)。

そんなこんなで博論を書くわけですが、博論を書いているときというのは、修士の頃などをよく思い出します。まあそれは修論を読み直したりしなくてはならないからんですよね。修論読むと「おれの文章ひどいな・・・」と、だいたいまあ悲しい気持ちになります。しかし、博論を書くためにはこういった過去の自分と向き合わなければなりません。

過去の資料を見直すたびに、「ああ、これのときこんな大変だったな」、「このときはこういうこと、がんばっていたな」というかんじで、いろいろな思い出が浮かび上がってきます。そのせいで、研究室の行き帰りは、博論をどう構成しようかということを考えているつもりが「あのとき、あんなことがあったなあ」という過去の思い出について考えていることが多いです。

そういう意味では、博論というのは、研究成果をまとめるだけではなく、自分の大学院生活を整理するという側面もあるのかもしれません。

博論を書いていると、過去の文章をみて「ああ、あのときはだめだったな」とへこんだり、「ひどいとわかるということはいまの自分は成長したんだな」と自信を持ってみたり忙しいです。さらに「俺、ほんとに書けるのかな」と思う瞬間もあれば、「これ、絶対いけるわ!」と思う瞬間もあり、気持ちのせめぎ合いをしながら文章を書いています(笑)

少しかっこよくいえば、過去を忘れるでも、すがりつくでもなく、自分のなかで折り合いをつけながら、前を向くというかんじでしょうか。

おそらくここで書き上げた博論も時がたてば、「あのときの俺の文章ってこんなんんだったのか」と思うと思います。昔はそういうのはイヤだったのですが、いまはそれもありだなと思うようになってきています。

「書くこと」や「思考」には、明確な終わりはありません。常にそのときの「暫定的な最適解」ではないかと思います。

いまの自分はまだまだ未熟なわけですが、未熟な自分なりにいまできることを、その時々にしっかりまとめていくということをつづけていきたいなと思います。

ということで、まあ文章を書いているといろいろな思いがわいてくるわけですが、しっかりとまとめていきたいなと思います。