月別アーカイブ: 2011年8月

「見せたくない!」と恥ずかしがらず、仕事を小出しして見せる技術を身につけよう

一応大学院生は夏休みですが、院生にとって夏休みはあってないようなものです。僕は博士課程の院生ですが、修士の学生さんたちも、自分の研究のみならず、授業の課題や、研究室のプロジェクトなど、複数のタスクをこなしながら日々生活しているようです。

ただ、ここで1点気をつけなければいけないのは、色々マルチになるあまりに自分の研究がおろそかになるってことなんですね。

さらに怖いのはちょっとおろそかにしてしまったことで、「他の人にいまの進捗を見せたくないな」と思い、どんどん自分で抱えてしまい、さらに先に進まなくなるということなんですね。

きっとこんなプロセスになるんじゃないでしょうか。

・研究以外に時間をとられてしまい研究が進まない
・わからないことがあるけど全然進んでないので人に見せられない
・人に見せられないのでわからないことがそのままになる
・さらに時間が空くので、よりちゃんとしたものを見せなくてはとハードルが上がる
・ハードルがあがるから見せられない
・見せられないからさらに進まない・・・

考えただけで恐ろしいスパイラルですが、けっこうよくあることかなと思います。研究に限らず仕事全般でもそうかもしれませんね。

自分もこのスパイラルにはまりましたし、いまでも時々はまります(笑)

このスパイラルを抜け出すための方法は色々あると思いますが、やはり一つは「仕事を小出しに見せる技術」というか、そういうマインドを持つということが大事かなと思います。

このスパイラルをみれば分かる通り、ためればためるほど自体はより悪い方に転がってしまうわけですね。

だとすれば、ちょっと進んだところで見せるとか、ちょっとわからないなと思ったらそれをすぐに表明するというか、そういう「小出しの技術」が大事なのかなと思います。

仕事を任せた側にとっても、小出しされたほうが進捗がわかって安心しますよね。

また、もう一つ大事なのは、「小出しして見せられる仲間(先輩など含む)を持つ」ということかもしれません。

小出しが大事とわかっていても、自分の「評価者」のような人に、全然出来ていない状況などを見せるのはやはりハードルが高いかもしれません。怒られたりするのもいやですよね。

そういうときに「小出ししてもよさそうな人」を自分の周りにおいておくことが、自分の仕事をうまく進めるコツかもしれません。

小出ししてもよさそうな人の条件は、おそらく、

・自分の仕事のありのままを見せられる人(わからないことをわからないといえる)
・できればいまやっているタスクと利害関係のない人(ニュートラルに対応してくれる)
・できれば自分より先輩である人(問題の解決策を知っている人)
・怒らず状況を聞いてくれる人

あたりがよいのかなと思います。

そんな都合のいい人いる!?っていうつっこみもあるかもしれません(笑)

でも全部は当てはまらないかもしれませんが、こんなかんじの人は僕の頭の中に何人か浮かびますし、実際に自分もお世話になっている人もいます。

きっとあなたの周りにもいると思います。

いい仕事をしたいとか、いいところを見せたいと思えば思うほど、できていない自分を人に見せたくなくなるかもしれません。

でも、最終的なゴールを考えれば、いまちょっとだけ恥ずかしい思いをしても、小出しにしたほうが当然よい結果を得ることができます。

忙しい中でも、できるだけ「小出し」を意識しておくこと、そして、安心して「小出し」ができるパートナーを見つけることが、よい仕事をするためのちょっとしたコツなのではないでしょうか。

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大学は学生のキャリアに対してどこまで責任を負うべきなのか?-大学生研究フォーラム2011に参加してきた

8/1に京都大学にて行われた「大学生研究フォーラム」に参加してきました。このフォーラムは今年で4回目の開催となります。今回は「現代大学生の学びとキャリアをデータと実践を架橋して理解する」ということをテーマに実施されました。

今回は私の指導教員である中原淳先生がファシリテーターとして午後からのシンポジウムを行いました。

シンポジウムは、最初に溝上慎一先生と下村英雄先生による報告がありました。報告をざっと要約すると以下になります。

○溝上先生のご発表
・大学生を「大学生全体」として括るのではなく、タイプ分けして検討する
・タイプ分けには3つの種類がある
1.授業の時間・授業時間外・自主学習の時間から見る3つのタイプ
2.1週間の時間の使い方から分けた学生のタイプ
3.将来の見通しと理解実行に関するタイプ(2つのライフ)

○下村先生のご発表
・大卒者の初期キャリアと大学の学びを媒介するもの
・例えば、どのような大学生活をした人がどのような就職先を選び、年収がどうかなど
・対人志向・勉学志向の高低でどのような進路を選ぶのかなど

詳しくは当日のツイートのまとめがありますので文末にリンクを貼っておきます。

今回私は溝上先生や下村先生による調査をみることで、「大学生全体」についての理解を深めることができたと思います。

すなわち、「大学生」について、全体をひとくくりにするわけでもなく、自分の知っている大学生だけを検討するだけでもなく、全体を大きく類型するとどのようなタイプにわかれるのか、どのようなタイプがポジティブな結果につながっているか等を知ることができました。

しかし、その一方で「じゃあ大学ができることってなんなんだろうか?」ということについてはかなり「うーん・・・」と思う部分が多かったです。

つまり、「大学生の現状がこうだ。現状としてはこういう人が結果を出している」というのがわかったのはよいのですが、じゃあ大学は何をするべきなのか、何をすることができて、何をすることが学生にとって最もポジティブな効果があるのかということがよくわからなくなってしまったんですね。

そうなってしまう原因のひとつは、タイトルに書いた「大学は学生のキャリアに対してどこまで責任を負うべきなのか?」という問題とリンクしてくるんだろうと思います。

例えば、今回の発表を聞いていても、以下の3つが考えられます。

1.大学生が大学に対して適応すること(現状では6割が不適応といわれている)
2.行きたいところに就職できるということ(いわゆる就職支援)
3.就職した先で適応できるかということ(豊田先生は就活エリートが会社に適応できない現実を明らかにしている)

これを大学が何をすべきかということに言い換えること、こうなるのかなと思います。

・そもそも大学生活を楽しめる(適応できる)ような環境をつくるべきなのか
・行きたいところに就職できる(就職率を上げる)ということをゴールにすべきなのか
・就職した後にも不適応を起こさずに活躍できる人を育成すべきなのか

もちろん、これらが全部バラバラな問題ではないと思います。しかし、大学としては最低限どこまで担保すべきなんでしょうか。

そのゴールを決めない限りは、実際に大学教育として何をするべきなのかというところが見えてこないのかなあと思いました。そして、このゴールは大学によって様々なのではないかとも思いました。

つまり、日本の大学全体が同じゴールを持つというよりも、各大学が大学の特色を活かしながら独自のゴールを設定し、そのための実践を作り上げていくことになるのかなと思いました。

今回のフォーラムに参加したことは自分にとってとても大きな勉強になりました。

大学で非常勤などをやりつつも、まだ学生(院生ではありますが)という身分の中で、いまの大学生の現状はどのようになっているのか、どのようなタイプが結果を出しているのかについては理解できました。

しかし、「ではどのようにするべきなのか?」については、かなり色々考えることになりました。それを決めるためには、各大学が自らの大学の特徴を活かしながら、独自のゴールを設定し、それを実現するための方法を検討することになるのかなと思います。その意味では今後一層、大学ごとの特徴・特色がでてくるのかなと思っています。

まだ僕なりにうまく答えはでていませんが、このあたりを考えることが重要なテーマになってくるのかなと思いました。

大学生研究フォーラム2011
http://www.dentsu-ikueikai.or.jp/forum/forum2011.html

Togetter – 「大学生研究フォーラム2011」
http://togetter.com/li/169293

■溝上慎一先生の著書

【コラム】「日常の異化」と「自分なりの哲学」を持つ大事さ -2週間ノマド生活を終えて-

たまには日記風の記事も書いてみようかなと思います。

この2週間くらい色々な出張が続いたので、ノマドな研究生活を過ごしていました。

アメリカのボストンでCogSci2011に参加したり、現地の院生と交流したり、学習科学のセンターであるCELSETを訪問してきたりしました。

帰国してからも京都にいき、大学生研究フォーラムへの参加や、共同研究の打ち合わせ等をしてきました。

出会った先生、院生の数はものすごい数になり、そしてかなり様々な領域の人とお話しすることができました。

自分にとってこの2週間は、移動で大変だったことはありつつも、自分の研究人生にとって非常に大きな経験をすることができたように思います。

では何がそれほど自分にとってよかったのか。これについて少し考えてみたいと思います。

■遠く離れることで日常を異化する

今回僕にとって大事だったことは、時間的にも、空間的にも、日常から離れることができたことだと思っています。

普段いる日常では、なにが日常なのか、なにが問い直すべきことで、なにがそのままでよいのかがわからなくなってきます。リフレクション(振り返り)が大事であることはわかっていても、そもそも何をどこまでリフレクションするべきかがわからなくなるわけです。

しかし、遠く離れ、違った生活を行うとそれが見えてきます。

今回の旅を通して思ったことは、あらためて自分が大事にすべき時間が見えたことかなと思っています。当たり前だと思っていたものの時間を問い直す必要があるなと。

僕だけにしかできないこと、僕が本当にやりたい・時間を使いたいことはなにか、というのが少しだけ明らかになったように思います。これまでの日常が「これに時間を使わなければならない」というmust思考になりすぎていた部分をかなり感じました。

そうではなく何がやりたいことであるのかというwant思考の部分を少し取り戻すことができたように思います。

いわゆる「ワークショップ」でも、こうしたこと(日常の異化・振り返り)を狙うことがあると思います。しかし、やはりワークショップの場合は、時間的にも、空間的にも限られたものになります。

1週間以上、そして、1万キロ離れた場所でじっくり考えられたことは僕にとっては非常に贅沢な時間でした。

時間・空間的にリッチな時間は、思考を深いものとし、また、新しい発想を体に馴染ませるだけの時間的余裕を持てるように思います。頭で考えていることが体になじむまでには時間がかかります。短期間の振り返りだと頭では気づけても、体になじまないまままた日常に戻ってしまうように思います。

■多様な他者との出会い

この2週間は短い間に本当に多くの人たちと出会いました。色々なレイヤーのひとたちとの出会いやディスカッションがあったと思います。

・チョムスキー、トマセロといった大御所の研究者の発表を聞けた
・三宅なほみ先生など、日本の研究者の方々といろいろなディスカッションができた
・海外の院生や研究者と交流できた
・海外で活躍する日本人の院生とディスカッションできた
・日本のさまざまな研究室の院生とディスカッションできた

それぞれによって学んだことは異なりました。

・本の中だけで見る人を目の前で見ることで感じる実感
・同じテーマについて先生とディスカッションできる楽しさ
・「研究」ということを通して、世界と交流できる楽しさ
・同じくらいの世代でがんばっている人と話すことで得る刺激

などがあったと思います。これだけたくさんの人と出会ったり、ディスカッションしたりして、刺激を受けるというのは、毎日研究室に通うだけではできないことかなと思いました。

もちろん、研究室に足繁くかよって研究を着々と進めることが大事なのは言うまでもありません。しかし、これだけではどうしても煮詰まりますよね。その部分をかなり解消できたように思いました。

■ひとりのチャレンジャーになるということ

こうした日常と異なる状況や、多様な他者との出会いは自分にどんな変化を与えたのでしょうか。

その1つは「ひとりのチャレンジャーになれる」ということなのかなと思います。

もちろん僕はそもそも駆け出しで何者でもないわけですが、自分の研究室で何年も過ごしていると、少しずつ先輩としてふるまようになります。研究室の中では学年も上がってきて、マネージャーとして振る舞うことも当然多くなるわけです。

教えられる機会よりも、教える機会が少しずつ増えてきます。わからないことよりも、わかっていることの方が少しずつ増えてきます。それ自体は悪いことではありません。

しかし、その中でちょっとずつチャレンジャー的な気持ちが薄れていくように思います。気づけば、新しいことを自分が学ぶというよりも、自分が学んだことの切り売り的なことにならざるを得ない部分もあるように思います。

今回のような場にでていくと、学んだことを使いながらディスカッションしたりするのですが、それだけでは足りない点、勉強しなくてはならない点にたくさん気づくことができます。

これはある意味厳しいことであるのですが、むしろ「自分の成長の伸びしろ」を実感することができます。「ここをもっと勉強して成長したい」という気持ちにあらためてなれるんですね。その意味で今回の旅は大きかったと思います。

■自分の研究の「哲学」を持つ

もう1点、今回の旅にでて気づいたことは、「研究において自分なりの哲学を持つこと」の大事さです。哲学という言葉でうまく表現できているかわかりませんが、言い方を変えるならば、根源的な問いを持つことの大事さみたいなイメージでしょうか。

自分が話を聞いていて面白いと思う人はみな「人間とは何か」、「学ぶとはいかなることか」、「人のコミュニケーションとはいかなるものなのか」等という問いをどこかに持っているんですよね。研究としてやっていることはそのひとつの媒介というか手段のように見えるんですね。

研究は研究としてしっかりかたちを持ちながらも、その後ろに大きな問いや広がりが見えてくるわけです。これがすごくいいなと思いました。

日常の中にいると「論文は論文としてかたちにすればよい」ということで、大きな問いを考えることがなくなってしまうことがあると思います。もちろん、その逆で、大きな問いを持ちすぎることで「論文としてかたち